2007年02月14日
大団円:地上の楽園 その1
新暁幌炭坑はほとんど水没してしまった。
新暁幌市も、地底湖畔に広がっていた市街地の多くはあふれ出した湖に浸(つ)かってしまった。かろうじて、丘の中腹から上の住宅や施設は無事だったが、そこで何が出来るというのか。
無尽蔵と思われるほどの炭層の存在はわかっている。この一年ほどの間に整備した設備だけでも、その品質と産出量は日本の他の炭坑をはるかに超える優れた実績をあげていたのである。
だから、この豊富な地下資源を惜しむ声も当然あった。しかし、水没した洞穴(どうけつ)の奥深くで採炭するとしたら、とても採算が見込めるとは思えなかった。水を汲み出すにしても、大変な手間とお金がかかるだろう。山上の湖の底が抜け、そこに湛えられていた水がすっかり新暁幌炭坑の洞穴内に満ちているのだ。
あの福澤桃介も、札幌の星男爵邸を訪れ、男爵にこう言って決心を促したのである。
「幸い、この一年の操業で、投資した分は取り戻すことが出来ますよ。あなたや日下氏や、皆さんの手腕はたいしたものです。一年で利益を生むなんてね。他の出資者の気分も同じでしょう。今のうちなら『そこそこ儲かったし、その上いい夢もみさせてもらった』とね」
「儲かったからもういい、というわけかね。損をする前に資金を引き揚げると? ここで、私たちがやろうとしていたことは・・・『いい夢』かね」
「お金じゃありませんよ・・・肝心なのは」
桃介が窓の外に視線を移しながら、急に神妙な口調になった。
空気が重くなり、あたりが急に静かになった。
雪が舞い始めている。早い冬がやってきた。
「ほう。君にしては・・・」
「私がこんなことを言ったら可笑しいですか? 新暁幌が残したものはお金じゃない。夢だ。それもたくさんの夢だ。その夢にこそ価値がある。だから、この事業は大成功だった。ただし、赤字で終わらなかったのは幸いでした」
男爵が笑った。
「押さえるところは押さえているわけだ」
「そりゃあ、そうです。夢を試すにも、かなえるにも、お金はかかります。あなたは・・・新暁幌に、たくさんの、実にたくさんの夢を籠めていらっしゃった」
「だが・・・それも」
「いやいや、あそこで出来ないのなら、他でやればいいではありませんか。そこで・・・私も新暁幌で夢をひとつ見つけましたよ。頂戴して行ってよろしいですか?」
「ひとつ・・・だけかね」
「ひとつだけで結構ですよ。私のような器では、あれこれ背負うととんでもないことになっちまいますから」
「何かはわからんが、何でも持って行きたまえ」
「ありがとうございます。お礼と言っては何ですが・・・私の出資分は置いていきます。市民たちのこともあるでしょう。使い道はお任せしますよ」
「ありがたい。感謝するよ。しかし・・・君は・・・変わったな」
「かも知れません。で、条件は新暁幌を閉めること。でないと、皆の怪我がひどくなります。今が潮時ですよ。『夢』は皆に分けてやればいい。どこかで誰かが、その夢をみてくれるでしょうからね」
新暁幌炭坑の再開は断念せざるをえなかった。
男爵は、他の株主や幹部たちとも協議を重ね、閉鎖を決定した。
揺り起こされた暁幌はふたたび長い眠りついたのだ。
亨(とおる)の落胆は深かった。
彼は暁幌の申し子といってよかったし、根っからの坑夫だった。
しかし、もう地上に出るしかない。すっかり馴染んだ地下暮らしとも、もうお別れだ。
亨が家族の前でそう切り出したとき、輝(てらす)があっさり賛成したのは意外だった。
もっとも、円(まどか)は驚かなかった。
「ネルが喜びますよ。きっと」
輝はそう言って微笑んでみせただけだ。
そういうものか?
そういうものですよ。
円が笑った。
亨や輝には、長い炭坑の仕事で貯えもあったし、一年間とはいえ、新暁幌の株主のひとりとして、ある程度の利益も上げていた。その上、長い地下暮らしでお金はほとんど使わずに済んだ。日下家は、その貯えで暁幌山麓の土地を買い求め、農場を始めることにした。
亨にしてみれば、ここなら地下に眠る暁幌の守役としての役目も果たせると考えたのだろう。
亨や輝を慕う幾人かの坑夫たちにも、ツルハシを鋤(すき)や鍬(くわ)に持ち替えることにはなるが、彼らとともに働く場所ができたことになる。
輝もネルとともに、この「暁幌農場」で働くことにした。
ネルはすっかり日に焼けた健康な娘になった。
かつて神秘的な妖精のようにさえ思われた面影はもうない。
ソフィは日本に残った。
彼女には、もはや帰るべき国は無いのだ。
ソフィは、星男爵の支援を受けて札幌の大学に職を得、そこでドイツ語を教えるかたわら、北方民族の研究に携わることになった。
瑛は、晴れて星男爵家の跡継ぎとなり、学問の道を目指すことになった。彼の目下のテーマは北海道各地の伝承を収集し整理することだ。もちろんソフィの近くに居られるわけだ。
ただ、彼は、新暁幌炭坑の経緯(いきさつ)と洞穴の妖精や白い梟の物語を伝奇冒険物語に仕立てた読み物を書いて、それが東京で出版されてちょっとした評判になっている。瑛は学者になると言っているが、もしかしたら作家になるかもしれない。
あの白い梟(ふくろう)は、あの日以来、どこかへ姿をくらましてしまった。ネルにはなついていたはずだったが、日下家の人々、わけても輝を嫌っていたようだったから、今はどこかで、あの穂村老人をしのんでいるのだろう。
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Posted by 冬野由記 at 22:14│Comments(0)
│連載小説
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